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掲載日:2014.11.01

創立記念式典が行われました

10月29日(水)6時間目に、京華学園の創立117年を祝して「創立記念式典」が行われました。
以下、校長式辞を紹介いたします。
京華学園創立117(113)周年記念式典式辞(全文)
来る11月1日を以て京華学園は創立117周年。京華商業高等学校においては創立113周年を迎えます。
 本日は、皆さんと共に、この記念すべき日を祝うにあたり、改めて 学園の117年の歩みと、この永きにわたる歴史の中の先人を知ることで、創立者並びに、創立に関わった方々の後世に残る教育に対する情熱と本学園の「建学の精神」の意味を知り、生徒諸君が本校に学ぶ意義を再度認識することで、今を生きる我々の今後あるべき姿、進むべき道を見出す啓示としたいと思います。
 京華学園は明治30年(1897年)本郷区龍岡町、現在の湯島4丁目に京華尋常中学校として、創立者磯江潤先生によって設立されました。徳川家3代将軍家光の乳母、春日局の菩提寺として知られる麟祥院門前の勧工場の跡地で、当時は工場の建物を借用した、粗末な施設からのスタートでした。当時教壇に立ったのは、東洋大学創立者の井上円了氏、東北帝大総長、本多光太郎氏、工学博士の岡本楼氏など他にものちに帝国大学教授となるような多くの著名な教授陣でした。そして経団連会長を務めた石川一郎氏、世界的に有名な映画監督黒澤明氏など、数多の優秀な卒業生達を輩出してきました。開校から3年後、明治33年、本郷2丁目の新校舎に移転します。
 次に、磯江先生は「国富を増進させるためには人を作らねばならぬ。人を作るためには、実際に役に立つ教育を施す、学校を作らねばならぬ。」と力説され、4年後の明治34年(1901年)、実務教育の実現を目指して京華商業学校を設立。商業的道徳、商業的知識、商業的才幹、才幹とは物事を成し遂げる知恵や能力のことを意味しますが、それらを備えた人材の養成が何より必要と考えられたからです。現在のように男女共学になったのは戦後間もなくのことで、当時の名称は京華学園高等学校商業科でした。続いて京華高等女学校が設立されたのは本校より8年後の明治42年。これで現在の京華学園を成す3校が揃ったことになります。
 大正12年(1923年)の関東大震災後の火災に遭いますが、2年後の大正14年(1925年)には、現在の場所に第一期校舎が完成します。やがて昭和28年(1953年)、本校は京華商業高等学校として独立し、今日を迎えました。
 さて、学園の創立された当時の日本の情勢は、どのようだったのでしょうか。日ロ間の緊張が高まり、戦争の気配もありながら、人々の暮らしは急速に近代化してゆきました。一般生活にも洋食が導入されるようになり、明治製菓、花王、ライオン、帝国ホテルなど、老舗といわれる企業が多く立ち上がったのもこの頃です。
 丁度117年前、1897年の出来事はというと、話題になった本は島崎藤村の「若菜集」。この年はbaseballの用語を日本語に訳した人物としても有名な、正岡子規が主催した俳句雑誌「ホトトギス」が創刊されています。時を同じくして「実業之日本」が創刊されたのも、その時代の要請を反映しているものでしょう。また、英字新聞The Japan timesもこの年の創刊です。教育関連では、4月に国会図書館が開館。6月には京都帝国大学、現在の京都大学が創立されました。ドイツでブラウン管が発明されたのもこの年ですからテレビが発明されるのはまだ先のことですが、日本人の生活や文化が急速に西洋化していく中で、政治家をはじめ、多くの起業家達が強く世界を意識していたのです。これからの日本を支えていくべき人材をいかにして育てるか、磯江先生をはじめ、多くの教育者達が、その重要性を強く感じていたことは想像に難くありません。
その本学園の創立者「磯江潤先生」とはいかなる人物だったのでしょう。 1867年(慶応2年)生まれ。出身地は鳥取県です。小学校を主席で通し、地元の私塾で学び、京都から九州中津で遊学の後、東京の学塾で漢学を教えるなどしていました。郁文館中学の創設にも参加し、幹事に就任してからは幾つかの教育事業の経営にも携わりました。そして、15年間の教員生活を経て、30才にして「天下の英才を得て之を教育す」という建学の精神をもって、「京華尋常中学校」の創立に至ります。本校を開校するにあたって教育の重要性を説く先生に、沢山の人々から賛同を得ることができました。明治維新の功労者の一人である、吉田松陰の松下村塾の出身者でもある品川弥二郎子爵(のちの内務大臣)や旧広島藩主、浅野長勲侯爵などの有力者並びに、本郷区会諸氏、例えば現在の朝日生命取締役であった石亀健次郎氏、化粧品資生堂の創立者福原有信氏などによって、精神的且つ経済的支援を受けたという記録が残っています。
 では、磯江先生の掲げた建学の精神「天下の英才を得て之を教育す」とは、どういった意味があるのでしょうか。「英才とはいはゆる秀才に非ず。固き材木の材、社会、国家に有用な材をいう。」突出した、素晴らしい才能であったり、ずば抜けた能力というようなものではなく、堅実に実直に、世の中のためになる人材を育てたいという、先生の情熱そのものではなかったかと思います。現在、各教室に掲げてあるこの言葉は、生徒諸君がどのような教育を受けてきたかを指し示すものです。その情熱を受けて、諸君一人ひとりがどう応えるかということを、この言葉を見る度考えてほしいと思うのです。
 磯江先生の口癖は「NEVER DIE」でした。逆境に耐え、何事も目的、目標に向かってやり抜き、やり通す意志と行動力。自分自身と闘い、克服する不撓不屈の精神は、今も京華生の合言葉です。次いで開学時に選定された校訓5箇条。1.操行を慎み、礼儀を重んずべき事。2.規律に従い秩序を守るべきこと。3.誠実を旨とし、質素を尊ぶべき事。4.師長を敬い、愛校の心を振起すべき事。5.國体を重んじ、忠厚の念を涵養すべき事。今の言葉で言えば、常に謙虚で礼儀を大切にすること。規律と秩序をきちんと守ること。行いはおごらず、慎ましくあること。先生、先輩を敬い、母校を愛する心を大切にすること。そして、自分の国を大切にし、人のため、国のために生きる心を養うこと。ということでしょうか。また、磯江先生は民主主義の理念を以て、相手を尊敬し、敬意を以て人と接することの大切さも強調されていました。加えて、第3代校長渡辺順一先生の提唱された「学力の増進、人格陶冶、校規尊重、自治実行」をあわせて本校の校訓とし、3年間という限りある高校生活を、学問だけでなく人間性を養う場と、しなくてはなりません。
 そして、これら京華精神の象徴が、いま諸君の胸にある校章、早春を告げる梅の花です。「梅は寒苦を経て芳香を発す」厳しい風雪に耐え、百花に先駆けて咲く姿は、優美で気品が高く、清楚、忍耐、積極性、責任感、そして質実剛健を表しており、まさに社会の先駆者として、有能な人間に成長することを期待したものです。
 加えて、「東京の華であり、華々しく光り輝き、永遠に発展する学校」だとして、この校名を命名してくださったのは、京華学園創立時の相談役であり、明治維新の功労者である、時の内務大臣品川弥二郎子爵でした。以上のように本校は、生徒諸君がそれぞれの個性を活かして立派に社会貢献しうる人間となり、それぞれが自らの人生をより豊かに、活き活きと歩んでほしいという、創立者磯江先生をはじめとする創立に関わった方々の、願いを込めて創られた学校なのです。
 縁あって本校の門をくぐり、この学舎で出会った君たちと共に、今このひととき、先人に思いを馳せ、この場の成り立ちを知ることで、この学園での学生生活を更に充実させてくれるであろうことを期待しています。最後に、京華生であったことを誇りに、勇気を持ってその先の一歩を踏み出していってくれること。この3年間の高校生活が今後君たちの人生の中で大きな糧となることを祈念して、式辞といたします。
                        平成26年10月29日
                        京華商業高等学校
                        校長 太田祐司